№18 広い「阿品」・狭い「阿品」
2008年 12月 30日
文政2年(1819年)の地御前村下調帳では「当村には49の字があり、この内 阿品・鰆浜・上田尻・下田尻の肩には「飛郷」と記されている。」 この4つの「字」が広義の「阿品」である。4つの「字」の中の「阿品」が狭義の「阿品」を指す。
現在、広義の「阿品」は住居表示により、阿品と阿品台に町名設定されているが、阿品台は山地を開発した団地である。
「鰆浜」は新住居表示で「阿品一丁目」となっている。この中の「阿品一丁目1番~5番」は本来の阿品でなく地御前に所属していた。1番から3番は新しく出来た小規模団地「光が丘」であるが、4番・5番は古くから家屋があり鰆浜部落と一体となって生活していた。
狭義の「阿品」は、ほぼ現在の「阿品二丁目」である。「上田尻・下田尻」は狭義の「阿品」と一体となり長年生活を送ってきたが、現在では「阿品四丁目」となっている。四丁目はふじタウウンが大半を占めている。
「阿品三丁目」は昔は当然海の中である。
「阿品台一丁目・東・北」の大部分は本来の「阿品」で無く地御前であった。「光の園」は現在でも地番は「地御前」となっている。当然「阿品台東」の日赤看護大学も本来の「阿品」ではない。
阿品地域以外の人が言う「阿品」は「阿品・鰆浜・上田尻・下田尻」を指し、この中の「鰆浜」の人が言う「阿品」は狭義の「阿品」、現在の「阿品二丁目」のみを指す。
ややこしい話であるが、阿品に生まれ育った人でないと、何が何だか分からないのではなかろうか。
生まれ育った所の話を興味深く読ませていただいています。
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soumu/bunsyo/monjokan/ にも色々資料がありますね。