素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№703 海と島と港の見える丘

№703 海と島と港の見える丘_e0125014_10165814.jpg
 昭和40年代になると、広島市及びその周辺は人口の都市集中が著しく、強力な宅地、住宅の供給対策が望まれていた。

 この対策の一つとして、主として広島市の業務地域への通勤人口対策を対象とした、健全な居住環境と都市機能を備えた旧宅市街地を開発し、良好な住宅地の大規模な供給をはかることとされた。

№703 海と島と港の見える丘_e0125014_10172012.jpg
 大規模住宅用地の選定にあたっては海岸線沿いに国道・山陽本線・広電宮島線が平行し、広島市への通勤の便が良い。

 造成する山はなだらかで、昭和40年代まではほぼ無人の里山で、谷筋に僅かな耕地があるのみで開発が比較的容易である。

 広島湾に面し気候も比較的穏やかで、年中過ごし易い等の理由で阿品の地が選ばれた。

№703 海と島と港の見える丘_e0125014_10462375.jpg
 当時、広島県の輸入木材の6割を扱っていた広島港は、施設が各地域に分散されていたため、廿日市地区に貯木場と係留施設及び企業用地造成を行う木材港の計画が立てられた。

 この木材港造成の為埋立土は、廿日市ニュータウン造成の残土が搬出されることとなった。このため土砂運搬用道路が新設された。この道路は「阿品・高通り線」の名称で、住宅団地造成現場から山を削り宮内の「畑口・寺田線」まで結ばれた。

 昭和46年に住宅団地の造成工事が始まったが、この間一日何百台ものダンプカーが新しい港の新築現場まで行き交った。

 昭和52年には住宅の分譲が開始された。計画戸数3,500戸、計画人口12,600人で一時は若い人や子どもで溢れかえっていた「阿品台」も高齢化と少子化で、かつての活気がやや失われたようである。
Commented at 2015-03-30 21:19
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2015-03-31 08:43
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by hirosan_kimura | 2015-03-29 11:37 | 阿品台 | Comments(2)