素人が調べたもので誤りも多々在ろうかと思いますが、気のついた点はご指摘を頂き、古い資料や写真等があればご一報いただければ幸いです。


by hirosan_kimura

№694 鰆浜と阿品一丁目

e0125014_11104722.jpg
 阿品に住んでかなり年数を経た人でも、地名の「鰆浜」が出てくると「鰆浜」とは何処ですかと尋ねる人がある。鰆浜で生まれ鰆浜に長年住んでいた者としては寂しい思いをすることがある。

 鰆浜の名称は「町内会」「子供会」「集会所」「公園」などに使われるのみで、鰆浜以外の人たちにとっては馴染みの無いものとなってしまった。平成13年には「広電阿品駅」が「広電阿品東駅」に名称変更されたが、せめて「広電鰆浜駅」にでもなり「鰆浜」の名称が後の世に残ればと悔やまれる。

 地御前村の時代には本郷に対して、飛郷の阿品には「鰆浜」「阿品」「田尻」と三つの大字があった。当然これらの地名は日常茶飯事のように使われていた。

 「田尻」は家も数える位しかなく部落としては形成されていなかったが、阿品では「鰆浜部落」と「阿品部落」の二部落で成り立っていた。鰆浜部落は一つの町内会であったが、阿品部落は何時の時代か分からないが西と東に別れていた。
e0125014_1125777.jpg
 地御前村時代の住所の表示は「佐伯郡地御前村字鰆浜○○番地」のように表示していたが、廿日市町になってからは「佐伯郡廿日市町地御前○○番地」のような表示になった。

 土地の表示には耕地番と山番地があり山を造成して住宅地にした場合、山番に枝番を付けたり新しい番地を付けたりしていた。住居表示前のふじタウンは4000番台、阿品台は3000番台の番地であったように記憶している。

 このように番地は複雑となり番地を頼りに家を探し当てるのも困難となり、阿品では昭和57年に町名の設定と住居表示が実施された。概ねであるが鰆浜は阿品一丁目、阿品は阿品二丁目、田尻は阿品四丁目と設定された。町名の設定に当たっては、主要道路などを町境としているため旧字境とはかなり異なっている。

 上図の青線で囲まれた部分は「阿品一丁目」に設定された区域である。概ね旧字の鰆浜区域であるが、左の赤い区域は旧字阿品の一部が阿品一丁目に編入されている。

 字鰆浜と字阿品の境は山の稜線を境としていたが、過去に県病院に隣接する山を造成し住宅地に開発する計画があったが、山の稜線を町境にすると住宅地の真ん中に町境が生じるので、山の南端を境としたのかも分からないが今ではこの計画は白紙となっているらしい。

 上図右側の薄い青と緑の部分は旧字田屋区域に属していたが阿品一丁目に編入されたものである。薄い青色地区は別荘や広島に支店の有る会社の社宅などがあったが、田屋部落とは隔たっており古くから鰆浜の町内会に属し、子供会活動を始め各種行事なども一体となって行っている。

 緑色の部分は厳島合戦の際に毛利軍が陣地を構えていた山があった。後に射撃場が設けられていたこともあったが今では小さな住宅団地となっている。

 旧字に属していた田屋部落とは西バイパスとで分断され阿品一丁目に編入されたが、小学校も公民館も遠く阿品区域に属するのは無理があるようである。道を挟んだすぐ向かい側はコミュニティも小学校も地御前に属している。

 一昔前までは、民家が一軒しかなかったJR奥の谷にも今では沢山の住宅が建てられている。しかしこの地域も高齢者が多くなり、子どもも少なくなり活気が無くなっているそうである。

 今県病院の跡地が売りに出ている。この地に住宅がたくさん建てられ若い人と子どもで溢れるような町になれば良いと考えるが果たして跡地はどのように変わるのだろう。
by hirosan_kimura | 2015-03-16 13:00 | 鰆浜 | Comments(0)