№606 往古の道跡?
2014年 01月 29日
阿品台の光の園より少し上の民家の間より地御前に降りる山道がある。平地に降りて海側に向かうとバイパスを横切って地御前神社附近に出ることが出来る。下図の赤線部分が残された山道である。この坂道の上側はニュータウウンの開発で山は削られ昔の面影は残っていない。下った場所も大きな開発こそされていないが、民家も立並び大きく変わっている。
この山道は犬の散歩をする人がたまに通るくらいであるが歩きやすい山道である。今では殆ど人の通ら無い道であるが、その昔広島方面から西に向かう人達がたくさん行きかっていた道ではないかと推測される。
遠い昔阿品附近の海岸は山裾が海まで迫り、海岸沿いの道路は無かったが広島方面から九州方面に向かうのは、串戸附近から宮内を奥の谷に向かい槍出峠を越えて大野に抜けるのが通常であった。この道は余りにも遠回りなので地御前を抜け神社附近より奥の谷に入り、そこから山越えをして鰆浜の谷を抜け阿品に入り、阿品の谷の奥から再び山を越え、大野の中山や更地に抜ける人々も多くあった。
現在阿品公民館裏に安置されている「教え地蔵」は阿品の谷の奥で、大野の中山と更地との分岐点に旅人が迷わないよう道標として安置されていたものを、ニュータウンの開発により谷が埋立てられるため現位置に移設されたものである。
以前にも紹介したが今から640年くらい昔九州探題に赴任する今川貞世が、応安4年9月の紀行文に「廿一(21日)は此佐西(廿日市の旧称)から出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに」との一節を残している。
確たる証拠はないものの、様々な文献で推察するとこの山道を越えたことは間違いないのではなかろうか。
帰省した折には行ってみたいと思います。
要するにここは田屋の奥ですね。