№457 弾丸列車
2012年 05月 24日
そこで昭和13年から幹線輸送強化の調査研究が開始され具体的に検討された結果、東京から下関まで別線の高規格鉄道を早期に新設することとなった。
昭和15年9月には帝国議会で広軌幹線鉄道計画が承認され、昭和29年までに開通させることを目標に、総予算5億5千万円で建設されることとなった。
これに基づき用地測量・用地買収・工事が開始された。完成後は最高速度時速200kmで東京~下関間984.4kmを9時間で結ぶものであった。当時は同区間を18時間半要していた。
構想として将来は対馬海峡に海底トンネルを通し、満州国の首都「新京」・中華民国の「北京」まで東京から直通列車を走らせるとう言う、とてつもない構想であった。
しかし戦争の悪化により昭和18年度を持って工事は中断したが、工事途中であった「日本坂トンネル」はその後、東海道新幹線のトンネルに転用されている。
用地買収は、地主の所に鉄道関係者が突然やって来て話し合いなど一切無く土地の境界に杭を打って帰り、買収価格の交渉も無く地主は相当安い価格で買い叩かれ、応じなければ非国民扱いされる始末であった。
戦時体制による半ば半強制的に用地買収された土地も、戦後元の所有者から訴訟などがあり多くの土地が返還されたらしいが、東海道新幹線では「弾丸列車」のために買収された土地も利用されている。
阿品地域でも弾丸列車用地の測量が行われ敷地境界の杭が打たれていた。用地買収まで行ったのかは不明である。
詳しい位置は不明であるが、現在の鉄道線路と阿品台の下辺りの中間付近を横切っていたらしい。上図の赤線は推定で正確なものでは無い。詳しく位置の分かる資料は無いものであろうか。
もし弾丸列車が実現していたら、阿品の風景も随分変わっていたことだろう。