№407 にぎやかな秋祭り
2011年 10月 10日
昭和30年代頃までは神輿は青年が担ぐもので「俵揉(たわらもみ)」と言っていた。その名の通り俵を三段重ねその上に飾りつけをしたものを、二本の太い丸太に乗せて阿品の青年が町内を練り廻っていた。
音頭を執る人の合間に、担ぎ手も大きな声で合いの手を入れそれは勇ましく勇壮なものであった。家々を廻る中には、担ぎ手に冷酒を差し入れ時には酒が廻って、ろれつが廻らなくなったりふざけて無茶苦茶になったりすることも当たり前であった。
子どもたちはそんな様子が面白かったり時には恐ろしかったりしたが、「俵揉」について廻るのが楽しみであった。
楽しみの少ない当時としては、大人も子どもも秋祭りは一年の中でも待ち遠しい行事のひとつであった。各家ではご馳走を作り、親戚や知人を招いて大人はお酒を飲んだり終日賑やかであった。
母の実家が「岩鏡神社」のすぐ傍で、秋祭りには必ずといっていいぐらい行っていた。神社では朝から人の訪問が絶えず、太鼓の音が鳴り響いいていた。
そのうち阿品では「はな」と呼んでいたが顔に恐ろしい面を被りはでな衣装を着、手には竹の棒を持ち家々を廻って来た。
今では「はな」は子どもが衣装を着て、おとなしく神輿について廻る程度であるが、当時は若い青年が「はな」になり、若い女性を威嚇して追いつけ回していた。
特に新婚の花嫁はターゲットにされ、はなに見つからないよう家中を隠れ廻っていた。時には「はな」が家々で酒をふるまってもらい、酔ってへべれけになり無茶苦茶にふざけまわることもあった。
子どもたちもふざけて追い回されることもあったが、恐ろしさ半分・興味半分で「はな」の廻る後を追いつけまわしていた。あれほど大騒ぎしていた「はな」がどこに行ったか分からなくなり、みんなで探し回ると田んぼの隅で泥酔して寝込んでいたこともあった。
今では秋祭りに家々でご馳走を作りたくさんの人が集まることも、勇壮な「俵揉」も恐ろしい「はな」も、それを追い回す子どもたちの歓声も聞こえなくなってしまった。