№257 阿品歴史年表 6
2009年 12月 04日
年月は不明であるが、明治40年代に地御前の清水と言う人が鰆浜(鳥山の麓 泉窪附近らしい)に石風呂を開業する。昭和10年頃廃止される。江戸時代に串戸・地御前・阿品に蒸風呂があったとの記録も有る。
密閉できる室の中で松葉を燃やし、その余熱の中に莚を敷き、藻を敷詰めて時折り海水を掛け、密閉して藻が十分温まり部屋の中に水蒸気が充満した中に入る。
明治44年(1911年)9月
廿日市~大野間に電話が開通する。阿品に電話が開通したのもこの頃と考えられる。
明治45年(1912年)1月31日
広島電気軌道株式会社より、己斐~大野村間の軽便鉄道敷設願いが出される。しかし同年3月13日に「国有鉄道線路ト並行スルモノニ有之、目下敷設必要無之認候条、聞届ケ難シ」と、内閣総理大臣より却下された。
大正5年(1916年)12月8日
宮島線軌道敷設申請が、発起人 広島市下柳町五拾八番地 谷口節以下13名より提出される。この申請は、関係町村の意見が整わず、またその線路が「国有鉄道ト並行スルモノ」であり、目下敷設の必要を認めずとの理由で却下される。
大正8年(1919年)9月30日
広島瓦斯電軌株式会社より、宮島線鉄道敷設免許申請が提出される。この内容は、広島軽便鉄道株式会社が所有する、己斐~草津間の軽便鉄道敷設権を譲り受け、あらためて草津~大野村に至る地方鉄道敷設を計画したものである。
大正9年(1920年)
旧国道法により、国道2号は東京市より鹿児島まで路線認定される。
大正10年(1921年)1月16日
芸備日日新聞記事
広島・宮島間電鉄速成同盟会設立
廿日市町を中心とし、附近数ケ町村の有力なる商工業者を以って組織せる佐伯商工会にありては、十三日廿日市町に於いて役員会を開催し、予て建設予定中の広島宮島間電鉄の速成に関し種々協議の結果、速成同盟会を組織し実行委員会を決定芹。今後関係地方有志者と提携し、建設速成に就き大々的運動を行ふことゝなれり。
大正11年(1922年)
明治23年の暴風雨のため損壊していた「お上がり場」の石垣が復旧する。
大正11年(1922年)8月22日
広電宮島線 西広島~草津間開業。
大正11年(1922年)
田尻4.9アール、阿品1アールの牡蠣養殖が営まれる。
大正12年(1923年)12月27日
電鉄宮島線敷設のため公有水面埋立申請
出願者 広島瓦斯電軌株式会社
場所及び面積
地御前村字鰆浜及阿品地先 三千弐百五拾六坪七合八勺
大正13年(1924年)4月6日
広電宮島線が、草津~廿日市間延長される。
大正14年(1925年)5月26日
広島瓦斯電軌株式会社より、新宮島駅(鰆浜)から厳島間の連絡船就業の申請がある。
大正14年(1925年)7月15日
広電宮島線 廿日市~地御前間延長。(2,514.6㍍)
大正14年(1925年)7月15日
鰆浜~厳島間、汽船3隻により海上輸送が開始される。地御前駅から乗船場までは徒歩か自動車で行っていた。自動車の運賃は9銭。船は40分間隔で運航され運賃は15銭であった。
船は三菱造船所で建造された。第一・第二・第三宮島丸と名付けられ、46.53㌧2隻。71.92㌧1隻であった。
大正4年(1926年)9月21日
煮干鰮製造のため田尻の鉄道用地の内 弐反六畝拾五歩の払下願書が地御前村より鉄道大臣に提出される。