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by hirosan_kimura

№256 阿品歴史年表 5

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明治30年(1897年)
 山陽鉄道のトンネルを掘削する人達が、工事の安全祈願のため鰆浜に「荒神さん」を建立する。当初はトンネルの真上にあったが、地元の人がお参りするのに不便なため、後に現在地へ移設された。

明治30年(1897年)1月24日
芸備日日新聞記事
延長線路中の難工事
 広島以西三田尻間の延長線路中、最も困難なる工事は第七工区、即ち佐伯郡地御前及び阿品の両對同隧道鳴りとす。共に去る二十九年十月二十日工事着手したるものなるが、地御前隧道七鎖は里人鵯山と称する、険阻なる山雟を開鑿するなるを以って、中部には石等多きより其工事も余程困難なる由なり。
 左れど昨今工夫三十名は開鑿工事に勉励中なれば、是非とも予定の期日なる、来る四月十七日までには竣工せしむる筈なりといふ。阿品隧道三鎖四十節も目下間断なく工事に着手し居ることなれば、之も同時までには確に竣工するの見込みなりと。

明治30年(1897年)9月9日
 広島以西の山陽鉄道の敷設工事は、地御前村までが広島駅臨時建築事務所、大野村以西が岩国臨時建築事務所出張所が管轄し、全体を七区間に分けて行うとされ、観音村から地御前に至る区間は第六区とされた。阿品隧道・地御前隧道の工事は途中で落盤事故が起こるなど、「激浪の為め頗る困難を感じ、干潮の時を測りて昼夜の別なく施行しつつあり」と言うように、その作業は難航した。
 この工事が最終的に最終的に完了したのは、開通間近かであった。

明治30年(1897年)9月25日
 山陽鉄道が広島~徳山間開通する。当初計画では地御前に駅が設置される予定であったが、地元の反対により大野村赤碕(現在の宮島口一丁目)に設置される。当初の駅名は「宮島」であったが、昭和17年4月1日に「宮島口」に改称される。
 当時駅周辺は民家が27戸散在し、海岸沿いは宮島の墓所であり、狐が出没するような草原で寂しい場所であった。
 開通時の運行計画は、広島~徳山間が上下6便(うち急行1便),広島~柳井間が上下2便。外に貨物列車2便があった。

明治38年(1905年)4月1日
 地御前尋常小学校が、地御前尋常高等小学校と改称される。尋常科に加え高等科が設置された。

明治39年(1906年)12月1日
 山陽鉄道が政府に買い上げられ国有化される。
by hirosan_kimura | 2009-12-03 03:56 | 歴史 | Comments(0)