№254 阿品歴史年表 3
2009年 12月 01日
明治6年(1873年)4月5日
地御前小学校の前身である「必隣舎」が創設される。校舎は釈迦堂を正行寺に移し修理を加え、当分の間代用することとした。授業料は子ども一人につき10銭、二人で15銭、三人以上は30銭であった。
明治9年(1876年)11月1日
「必隣舎」が、地御前小学校と改称される。
明治11年(1878年)4月15日
廿日市以西の道が、海岸沿いに整備する工事が着手される。
明治11年(1878年)7月
郡区町村編成法により大区・小区が廃止された。佐伯郡地御前村となる。
明治11年(1878年)9月
地御前村の大地主3名が、阿品沖への新開築造計画をする。堤防は道路兼用で、面積は123町6反23歩と大規模なものであった。地御前神社から田尻までを一つの新開としたもので、道路部分は陸地からかなり離れたところを通っていた。道路の設置を優先するためこの計画は取止められ、海面の埋立は必要最小限の押さえられた。
明治12年(1879年)4月20日
鰆浜1反8畝7歩、神馬窪1畝23歩、阿品8畝9歩、田尻1反1畝23歩の新開開墾願いが提出される。いずれも小規模なもので、道路ができ海水に漬からなかった箇所を埋め立てる程度のもので、工事はすべて同年12月に完了した。
明治12年(1879年)
新道付替えに伴い「阿品浜」の沖に、「阿品新開」が築調され汐止めがあった。総面積38反2畝。
明治12年(1879年)
旧国道完成。地御前村内の国道は、宮内境から地御前神社間は旧村道を活用し、道幅僅か2間弱の所もあった。地御前神社以西は新設した国道で、道幅は3間以上であった。海側の道肩は神社~沖山・お上がり場~赤碕間は高さ2尺余りの石積み。沖山~お上がり場間は、高さ1尺五寸余りの漆喰土盛りであった。工事を請負ったのは後の宇品築港の工事者、服部長七と伝えられている。
明治13年(1880年)2月16日
廿日市以西の往還、宮内から大野四郎峠・苦ノ坂・四十八坂等の経由を廃し、廿日市より地御前神社を経由し、鰆浜・阿品・田尻経由の海岸回りに、西新道通行の布達が県令より出される。
明治17年(18884年)9月
阿品じんねい鼻にあった火葬場が廃止され、鰆浜に設置される。
明治18年(1835年)
内務省告示6号「国道表」に、東京より長崎に至る路線が国道4号に指定される。ほぼ西国街道を軽症。
明治18年(18885年)8月1日
明治天皇が西国巡礼の折、厳島から広島に向かわれる途路、阿品の「お上がり場」にご上陸される。